骨董品買取 朝伊苑

















備前焼の買取

備前焼の買取
備前焼は岡山県備前の伊部地方で盛んになり、日本六古窯のひとつであります。
千度以上の高温で十日ほどかけて焼き上げます。
絵付けや釉薬を使わず、素朴で土の薫りが残る造形が特徴です。

その歴史を辿ると、はるか古墳時代の須恵器(すえき)にまで遡ります。 須恵器は土師器(はじき)に比べ堅く割れにくいため、平安時代には庶民の生活にまで浸透し、広く普及しました。
この須恵器が、日本の六古窯へと変容していきます。備前の地では、鎌倉時代に「古備前」として繁栄しました。

室町時代には、伊部で採取される粘土が使用され、ロクロによる成形、半地下式の大きな窯が使われます。
さらには茶の湯の祖である村田珠光が、自ら切り開いた「わび」の茶道に適するとして、備前焼の素朴な造形を評価いたします。

江戸時代には窯元六姓として、木村、森、頓宮、寺見、大饗、金重の諸氏が台頭いたします。
昭和に入ると、金重陶陽が備前焼を再興し、人間国宝に認定されます。そののち、藤原啓、藤原雄の父子や伊勢崎淳、山本陶秀が人間国宝となります。

2017年には、備前焼、越前焼、丹波立杭焼、瀬戸焼、常滑焼、信楽焼が日本六古窯として、日本遺産に認定されます。

備前焼の買取

金重陶陽

本名を金重勇といい、伊部に生まれます。
備前焼の「中興の祖」と尊称され、人間国宝の称号も受けました。

金重陶陽は様々な陶芸家、芸術家と交流がございました。

橋本関雪との合作がございます。
官休庵を訪れております。
川喜田半泥子と交流しました。
1967年に昭和天皇、香淳皇后が備前に来訪した際には、御前制作を行いました。

以下は金重陶陽を来訪した著名人です。
加藤唐九郎
表千家十三世即中斎
出口直日
北大路魯山人
加藤土師萌
武者小路千家十三世有隣斎
富本憲吉
河井寛次郎
浜田庄司
バーナード・リーチ
井伏鱒二


藤原啓

1970年に人間国宝に認定されます。
備前の穂浪の出身であり、若いときは文学を志しました。
博文館の「文学世界」にて応募の短編が1等となり、その後、博文館に勤務いたします。

正宗白鳥、徳富蘆花の影響を受けます。
40才頃に三村梅景に師事して陶芸の道に進みます。
金重陶陽、北大路魯山人からの指導もうけます。


藤原雄

視力が右0.03、左0というハンデを抱えながら備前焼にて大成いたします。
明治大学文学部に進学いたします。
その後、みすず書房に就職しますが、父の看病の為に帰郷して陶芸を志します。

棟方志功と共に、アメリカ、ダートマス大学の客員教授を務めます。
1996年には人間国宝に認定されます。

野球でお馴染みの衣笠祥雄と親交があります。
衣笠祥雄は1996年に連続試合出場記録をカル・リプケンに抜かれた際に、リプケンに藤原雄作の備前焼大皿を贈ります。


伊勢崎淳

伊勢崎陽山の次男として伊部に生まれます。
岡山大学教育学部特設美術科を卒業します。
兄と共に半地下式穴窯を復元し、備前焼の作陶に邁進します。
2004年には人間国宝に認定されます。


山本陶秀

1906年に備前の伊部に生まれます。
楠部彌弌に師事して陶芸の道を歩みます。
備前焼の「花瓶」をスペイン国王のファン・カルロス1世とソフィア王妃に献上します。
「流れ胡麻丸花瓶」を皇室へ献上します。
1987年には人間国宝に認定されます。

┏┻┻┳備前の刀剣┳┻┻┛

古備前派

☆大包平 国宝 在:東京国立博物館

平安時代に、備前の三平として名高い包平が打った大太刀です。
「備前国包平作」と包平にしては珍しい長銘(ながめい)を切ってあります。

織田信長の重臣、池田恒興の子、池田輝政の頃に伝わります。
池田正宗、池田来国光と共に、池田家の家宝でありました。
具足始(ぐそくはじめ)の儀式に着用する具足と一緒に、正月に飾られていたと伝えられます。

1967年には文部省が池田家より6500万円で入手しました。

備前長船派

☆金象嵌 銘 光忠(生駒光忠) 国宝 在:永青文庫

本阿弥光悦極めの名刀です。
表に「金象嵌銘光忠光徳」、裏に「生駒讃岐守所持」と切ってあります。

☆実休光忠(じっきゅうみつただ) 現存しません

三好実休が所持したことが、名前の由来です。
畠山高政から織田信長に渡ります。
本能寺の変にて信長がこの刀を振るい、切込みが十数か所できました。

☆燭台切光忠 (焼身の状態にて)在:徳川ミュージアム

信長から秀吉、そして伊達正宗へと伝わります。
伊達正宗が罪ある家臣を燭台ごと斬り伏せたことが名前の由来です。
水戸徳川家に渡ります。
関東大震災にて焼けてしまい、焼身の状態になりました。

☆大般若長光 国宝 在:東京国立博物館

佩表に「長光」と切ります。
室町時代に銭六百貫が付いたので、大般若経六百巻に因んで命名されました。

足利義輝、三好長慶、織田信長と伝わります。
姉川の戦いにて信長から徳川家康へ下賜されます。
長篠の戦いにて家康から奥平信昌に与えられます。

☆高瀬長光 在:上杉博物館

上杉家御手選(おてえらび)三十五腰(よう)のひとつです。
「長船長光」と切ってあります。
上杉景勝が所持しておりました。

☆津田遠江長光 国宝 在:徳川美術館

織田信長から明智光秀が奪います。さらに津田遠江守重に渡ります。
そして前田利長へ献上されます。

☆一国兼光 重要文化財 在:土佐山内家宝物資料館

代々、土佐の山内家が所持しております。
紀州徳川家の徳川頼宣が、この名刀の噂を聞きつけ、土佐の山内忠義に譲るよう頼みます。
使者として藤堂高虎を遣わし迫りますが、忠義は「土佐一国に比しても手放さぬ」と拒みます。

☆波泳ぎ兼光

目釘孔の下に「波およき末代剣兼光也」と切ります。
上杉家より羽柴秀次へ渡ります。1595年の秀次自害の際に、介錯に使われた刀と謂われます。
後に秀吉から小早川秀秋へ渡ります。秀秋は1602年に早世し、小早川家は断絶となります。

☆福島兼光 重要文化財 在:東京国立博物館

佩表に「備州長船住兼光」と切ります。
福島正則が広島の本覚寺から没収します。

福岡一文字派

★日光一文字 国宝 在:福岡市博物館

日光権現社より北条早雲が申し請けます。
小田原征伐の際に黒田如水(官兵衛)に伝わります。

★日光助眞(すけざね) 国宝 在:日光東照宮

備前三郎国宗と共に後に鎌倉へ移住し、鎌倉一文字とも呼ばれる助眞の鍛えた名刀です。
加藤清正が徳川家康に献上いたします。

★二つ銘則宗 重文 在:京都国立博物館

足利尊氏が佩刀していたと謂われます。
足利家の宝物である東山御物のひとつです。(他に鬼丸国綱、大典太光世、骨喰藤四郎など)
「笹丸拵」(ささまるこしらえ)という立派な外装です。

★岡田切(おかだぎれ) 国宝 在:東京国立博物館

鎌倉中期の名工、福岡一文字の吉房が鍛えた名刀です。
織田信長から息子の信雄へ与えられます。
小牧長久手の戦いの際に、織田信雄が家臣の岡田重孝をこの刀で成敗したことが、名前の由来です、(重孝が豊臣秀吉に内通したため)

★山鳥毛一文字(さんちょうもう) 国宝 在:岡山県立博物館

上杉家御手選三十五腰の一振りであります。
刃紋が山鳥の産毛を並べたように細かいと謂われます。
関東管領上杉家の重宝でありました。後に長尾景虎(上杉謙信)が長尾憲景より贈られます。

★姫鶴一文字 重文 在:上杉博物館

上杉家御手選三十五腰の一振りであります。
「上杉拵」と呼ばれる鍔の無い拵えです。

その昔、この刀を磨き上げようとすると、夢に「ツル」と名乗る姫が現れ、やめるよう頼まれた、という逸話が由来です。
代々、上杉家に伝来します。平成になり、米沢市が8000万円で購入します。
1881年に明治天皇が米沢の上杉家にて、名刀の数々を閲覧します。
あまりに熱中した天皇は、翌日の予定をキャンセルしたと謂われます。

★浅井一文字  現存せず

お市の方が輿入れの際に、織田信長より浅井長政に贈られます。
小谷城が落城した時に、形見として長政から娘の茶々に伝わります。

そして大坂城落城の後に尾張徳川家へ伝来します。
しかし関東大震災にて消失したとされております。

二度の落城や震災など数奇な運命を辿ったとされる名刀です。

★長篠一文字

長篠の戦での戦功により、織田信長から奥平貞昌へ下賜されます。
1868年には西郷隆盛が購入いたします。

備中青江派

☆数珠丸

天下五剣であり重要文化財です。
本興寺にございます。

備中青江派の青江恒次の鍛えた太刀です。

鎌倉時代の日蓮が所持しておりました。
刀の柄に数珠を巻いていたので、この名になったと謂われます。
日蓮は佐渡へ流罪となった後、赦免されて甲州の身延山(みのぶさん)に入山し久遠寺を開山します。

数珠丸は久遠寺に保管されますが一度不明になり、1920年に再発見され、現在は尼崎市の本興寺に保管されております。

☆にっかり青江

備中青江派の打った大脇差です。
丸亀市立資料館にございます。

夜中に「にっかり」と笑う女の幽霊をこの刀で切ったところ、翌朝、石灯籠が真っ二つになっていたという逸話が名前の由来です。
柴田勝家が所持しておりましたが、賤ヶ岳の戦いにて丹羽長秀が奪いました。
そのあと、秀吉に献上され、秀頼、京極高次と伝来します。