骨董買取 朝伊苑



















掛軸の買取

畳に床の間という所謂、日本家屋の建築が定着して以来、掛軸は季節の変容する節目に部屋を飾り、 お茶席や祝賀の晴れの場を格式高く保ち、日本人の生活に浸透して発展してきました。
さらに加えると花入れ、香炉、茶箪笥、鶴や仏の彫り物や鋳物、そして家の主や来賓の席次に至るまで、 掛軸を念頭に置きながら配置や内容が吟味されてきました。

令和の現代において、核家族化やマンション生活へのライフスタイルの変容により、先代の残した掛軸は行き場を無くしているのが実情でございます。
数ある骨董品のなかでも刀剣とともに掛軸はたいへんお値打ちの上がりやすいアイテムです。
古家や蔵に残る、あるいは先代より受け継いだ状態の悪い掛軸でも、一度お問い合わせください。
貴重な美術品を次の時代へ大切に繋いでゆくお手伝いができれば幸いかと思います。

掛軸の保存には桐箱が最適です。傷やへこみが発生するのを防ぎ、なおかつ湿気の予防にもなります。
また骨董品としての価値も、桐箱に作者の名前や花押が記してあることで、格段に上がります。

なかでも骨董品の価値が高くなり易いのは江戸時代以前の著名な作家が描いた掛軸です。
ただ悲しいことに掛軸は陶器類に比べると湿気や汚れに弱く、保存場所によっては何十年、何百年の間にシミや汚れが付いたりして、 貴重な掛軸の価値が下がってしまうことも多いです。
国宝や重要文化財に指定されるクラスの掛け軸、絵画に関しては、多くの所有者がこうした事態を考慮して、 博物館や美術館に寄託という形で預けたりします。

一般の方がお持ちの掛軸に関しても同じような事態が発生し、多くの文化財が毎年消失しているのが現実です。
先代の方が大事に保管されていた掛軸をお持ちの方は、できるだけ早くご相談いただくことをお勧めいたします。
朝伊苑では先代の方が残した多くの貴重な掛軸を丁寧に査定し、高価買取しております。
どうぞお気軽にご相談くださいませ。


江戸時代の掛軸 絵画

狩野派

狩野正信が創始して以来、狩野派は江戸時代から明治に至るまで、数多くの優れた絵師を輩出してきました。
二条城、大坂城、名古屋城、大徳寺など多くの建築物に狩野派の襖絵、障壁画が残されております。
これは時の権力者に狩野派が認められ、威信をかけた大作を任された証であります。

狩野正信の曾孫にあたる永徳は、織田信長、豊臣秀吉にその才能を称賛されました。
また、永徳の子、孝信は江戸幕府に重んじられ、孝信の子、探幽、尚信、安信は江戸狩野と呼ばれ、幕府御用絵師の地位を確立します。
一方で永徳の養子として豊臣家に重んじられた狩野山楽は、京狩野と呼称され、江戸に移った探幽らと別の狩野派の流れを維持します。

英一蝶
生き生きとした都市風俗画に新天地を見出した英一蝶は、当初、狩野安信に師事しておりました。
安信のもとを離れてより、宝井其角・松尾芭蕉ら俳人とも交わり、自由奔放な風俗画にその才を発揮しました。
十年ばかり三宅島へ島流しとなった時期もあり、江戸を想い製作したこの間の作品を島一蝶と呼びます。

久隅守景
狩野探幽に師事した久隅守景は、後に狩野派を離れ、農村風俗画を手掛けます。
守景は探幽の姪と夫婦になり、その娘、清原雪信は閨秀画家として秀作を残し、ボストン、ミネアポリスなど海外の美術館にも多くの作品が展示されております。


琳派

江戸時代に隆盛を博した「琳派」の流れを遡ると、本阿弥光悦・俵屋宗達に至ります。
刀剣の鑑定・調整に秀でた本阿弥光悦は、書画にも長け光悦流をつくり出します。
俵屋宗達は、風神雷神図屏風、源氏物語関屋澪標図屏風などの国宝で知られます。

江戸時代に入ると、尾形光琳・乾山兄弟が、琳派の中心となります。
尾形兄弟は京都の呉服商、雁金屋に生まれます。
富裕な豪商に生まれ30才にして家督を継いだ兄の光琳は、生来の遊び気質であり放蕩な生活で家財を切り崩したと謂われます。
雁金屋が傾きかけた頃、光琳は画業に目覚め、京都銀座の中村内蔵助や五摂家のひとつ二条家など、多くのパトロンに支援されました。
対して堅実質素な性格であった弟の乾山。
兄の光琳をはじめ、仁和寺門前の野々村仁清、樂家4代の楽一入に絵、陶芸を学びます。

後に江戸で活躍した酒井抱一により江戸琳派が興りました。
徳川幕府の譜代である酒井家に生まれた酒井抱一は、若き頃の放蕩三昧の末に、30代にて出家。尾形光琳の画風や宝井其角の俳味を独自に昇華した作品を産み出してゆきます。

文人画

江戸時代に多数の画家を輩出した文人画の歴史を辿ると、遥か古(いにしえ)の中国の南宗画に遡ります。
8世紀に「詩仏」と讃えられた王維がルーツと謂われております。
南宋時代の馬遠、夏珪などが中心となった院体画(北宗画)に対して、董源、巨然、米友仁など在野の文人が中心となり南宗画を盛り立ててゆきます。

日本においても当時上流階級のお抱え絵師であった狩野派に対抗する形で、文人画は広まってゆきます。
紀州藩に仕えた祇園南海、甲府藩に仕えた柳沢淇園が初期の文人画家と呼ばれます。
また農家出身の池大雅、庶民出身の与謝蕪村も後に国宝を残す有名絵師となります。

他にも浦上玉堂、田能村竹田、谷文晁、渡辺崋山と文人画の名だたる絵師が輩出されております。

狩野永徳

狩野派を代表する画人であり、国宝の代表作をはじめ、多くの名作を残しております。
織田信長、豊臣秀吉に仕え、聚楽第、安土城の障壁画など豪華な大作を描きます。
10才にして祖父、狩野元信と共に、足利義輝に拝謁します。
五摂家の近衛家にその才を認められ、近衛前久邸の障壁画を手掛けます。

著名な作品

洛中洛外図 国宝 在:上杉博物館
 織田信長より上杉謙信に贈られました。

唐獅子図屏風 在:宮内庁

聚光院障壁画 国宝 在:京都国立博物館
 聚光院は大徳寺の塔頭です。
 父、狩野松栄と永徳の合作になります。

尾形光琳

「琳派」の始祖として認められております。
弟には著名な尾形乾山がいます。

フェノロサには「世界最大の装飾画家」と賛美されております。
「光琳模様」と呼ばれる装飾的、美麗な作品が特徴的です。

1658年に京都の呉服店「雁金屋」に生まれます。
30才頃には放蕩三昧の暮らしをおくり散財いたします。
40才頃に絵画に打ち込みます。山本素軒(狩野派)に師事します。
40代後半には権威ある「法橋位」を得ます。

著名な作品

燕子花図 六曲一双 国宝 在:根津美術館
紅白梅図 二曲一双 国宝 在:MOA美術館


俵屋宗達

俵屋宗達は尾形光琳と比肩する江戸時代の絵師であります。
はじめは京都で「俵屋」という絵画工房を営み、扇絵などを手掛けており、俵屋の扇は人気でありました。

徐々に宗達の力量は評価されはじめ、福島正則の命にて平家納経の修復に携わります。
また後水尾天皇より屏風の依頼を賜ります。
やがて権威ある「法橋」の位も授けられます。

後には小林古径、平福百穂、速水御舟など多くの画家に影響を与えております。

著名な作品

源氏物語関屋及澪標図 国宝 在;静嘉堂文庫美術館
風神雷神図 国宝 在:京都国立博物館
蓮池水禽図(れんちすいきんず) 国宝 在:京都国立博物館

池大雅

与謝蕪村と共に文人画(南画)の大成者として知られております。
妻の玉蘭(ぎょくらん)も画家であり、夫婦共に粋に生きた芸術人として評価されております。
玉蘭の祖母、梶は歌人、母、百合も歌人でありました。玉蘭もまた冷泉家に和歌を学び、柳沢淇園に画を学びます。
当時「祇園の三才女」として京の人の話題となりました。

貧しい生活のなか、奔放に生きた池大雅の妻らしく、夫と共に風雅で常人離れした生き方に徹しました。

池大雅は京都銀座(京都での貨幣の鋳造場所、金銀の売買場所)の役人の子として生まれました。
柳里恭(柳沢淇園)に認められて、文人画を学びます。

明の文人である董其昌(とうきしょう)の言葉「万巻の書を読み、万里の路を行く」に影響され、旅や登山を好みます。
こんな逸話が残っています。京都で仲間と富士山の話題で盛り上がった池大雅は、突如旅支度をして一か月以上富士を旅して帰ってきます。粋な池大雅の真骨頂といえるお話です。

京都の苔寺の近くに池大雅美術館がございます。


著名な作品

楼閣山水図 六曲一双 国宝 在:東京国立博物館
十便十宜図のうち十便図 国宝 在:川端康成記念会
山水人物図 10面の襖絵 国宝 在:遍照光院

円山応挙

1733年に丹後に生まれます。10代のうちに京都に出て修行し、石田幽汀に師事します。
20代には眼鏡絵の制作に携わります。
1766年には「応挙」と名乗ります。
三井寺円満院の祐常門主に厚遇されます。
また三井家も応挙を有望視するパトロンでありました。
大本教祖の出口王仁三郎は応挙の家系より出ております。

後に応挙十哲として長沢蘆雪や駒井源琦など著名な絵師を排出しております。

著名な作品

雪松図 六曲一双 国宝 在:三井記念美術館


雲龍図

京都の寺院では天井に大きな龍の図を描いてあることが多いです。
とぐろを巻いた蟠龍図や二匹の龍が絡み合う双龍図などございます。
巨大なものは十メートル以上に及び、観光のメインとして紹介されております。

これは本来、水神さまとして称えられた龍が、魔除けや火除けの象徴として、寺社に描かれたと考えられております。
以下に著名な雲龍図をご紹介いたします。

相国寺「蟠龍図」

「鳴き龍」とも言われ、龍図の下で手を打つと、反響音が龍の鳴き声のように響きます。
狩野光信(狩野永徳の子)の作品です。

建仁寺「双龍図」

2002年に小泉淳作が手掛けた作品です。
11M×15Mのたいへん巨大な龍図です。

東福寺「蒼龍図」

堂本印象が描いた作品です。
22M×11Mの見渡すばかりの大きな巨大な龍図です。

大徳寺「雲龍図」

狩野探幽(狩野永徳の孫)が描いた作品です。
「鳴き龍」とも言われ、龍図の下で手を打つと、反響音が龍の鳴き声のように響きます。

南禅寺「雲龍図」

今尾景年の作品です。

泉涌寺「蟠龍図」

狩野探幽(狩野永徳の孫)が描いた作品です。
畳八畳分の大きさがある巨大な龍図です。