骨董品買取 朝伊苑

















中国美術 中国掛軸の買取 朝伊苑



世界四大文明のひとつに挙げられる中国の歴史は、主に南部の長江文明と北部の黄河文明を中心に繁栄しました。
紀元前を遡ること数千年前には、ろくろを使用した土器が作られ、艶やかな彩色が成されていたと謂われます。

また紀元前2000年頃から夏王朝、殷、周において青銅器が盛んに生産されるようになると、酒器、祭器、銅鏡など複雑な造形の青銅美術が勃興します。

時代が下り紀元後になってくると、漢、魏、隋、唐などの王朝は日本民族とも交流を持つようになります。
そして文字、仏教、美術、掛軸など多くの文化が日本に伝播することとなりました。
時代がさらに下り、明、宋、清の時代にも多くの仏僧、画家、知識人が渡来するとともに、多くの美術品が日本にもたらされました。
こうした美術品の多くは今でも貴重な骨董品として、先祖代々旧家や倉に残っております。

中国の美術品、掛軸などご所有のかたは是非、朝伊苑にお問いあわせください。
丁寧に査定させていただき高価買取させていただきます。


中国の陶磁器

紀元前を遡ること数千年の遥か古代。中国では農耕中心の新石器時代に入ると共に、多くの陶器、磁器が生産されました。(釉薬をかけない焼き物や低温で焼いた焼き物は陶器、施釉し高温で焼いた焼き物は磁器と呼ばれます)
その発祥は遥か1万年以上も前とも謂われ、中国文明の深淵さが垣間見られます。

中国の陶器は古代の夏王朝から殷、周、春秋戦国時代、漢、隋、唐の時代を経て、白磁、青磁、三彩など多岐に進化してゆきます。
そして宋、明、清の時代には海外にも多く輸出され、欧州では王族の住む宮殿に飾られるようになります。


このように世界の人々に愛されるまでに発展した中国陶磁器の原動力は、多彩な釉薬を用いた焼成技術に拠ります。
還元炎焼成による鉄分変化が発色して焼きあがる青磁は、早くも漢の時代にみられます。
鉄分を大目に混ぜることで出来る黒釉、コバルトを用いた瑠璃釉など様々な陶磁器が生産されます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆
古くは浙江省の越州窯において、古越磁(こえつじ)と呼ばれる青磁、黒釉磁がみられます。
越州窯は後漢時代に沿岸部から勃興し、六朝、唐時代まで続いた古窯です。

また唐時代を代表する陶器である唐三彩は、鉛釉をかけ低温焼成した鮮やかな彩色が魅力です。
動物、女性を象ったふくよかな曲線美や緻密な彩色美は、シルクロードから中東、欧州の人々を魅了し、日本の正倉院美術にまで影響を残しております。

宋代には官窯として栄えた河北省曲陽県の定窯が有名です。
透明釉をかけた白磁がたくさん生産されます。
また金彩が艶やかな金花定窯は高級品でありました。

この時代に江西省を中心に発展した景徳鎮窯は、明、清を経て今日においても中国を代表する陶磁の産地であります。
その優れた製陶技術は、青花(せいか)や釉裏紅(ゆうりこう)と呼ばれる優美な作品を産み出し続けております。


chinaという英語名詞が「陶磁器」を意味するものであることが、なにより中国と陶磁器の結びつきをあらわします。

中国陶器

中国の陶芸産地

*****  北部  *****

定窯

河北省曲陽県にて唐の時代より名窯として栄えました。
中国宮廷に直属する御用窯として、象牙白色に彫り文様・型模様を施した流麗な陶磁器を生産しました。
凛とした容貌の薄手の姿が美しく、薄青の透明釉やクリーム色の釉を極め、白磁の頂点として君臨しました。
そのほかにも金彩が見事な金花定窯、緑釉や黒釉を施した緑定、黒定など北宋時代まで盛況を極めました。

磁窯

河北省磁県を中心として河北、河南、山東、山西と広く行き渡り、庶民の生活に根差して作陶され、唐代から北宋、金の時代まで隆盛を極めました。
白土を化粧掛けし様々な装飾を施し、庶民的で厚手の素朴な姿を得意とします。特に掻落としによる白黒の色彩美を強調した逸品は、 1000年を経た今の時代にも多くのコレクターを虜にしております。
ほかにも鉄絵、緑釉掻落、象嵌などのちの時代に高麗や日本にも大きな影響を与える技法が発達しました。

鈞窯

河南省禹州市を中心として宋代、元代に盤・水盤・植木鉢・瓶・壺などが生産されました。
殿青(でんせい)釉・月白(げっぱく)釉と呼ばれる失透性の釉薬を用いた青色・青白色の青磁はたいへん人気がありました。
さらに銅呈釉を加えた紫紅釉による美しい赤色系の陶磁器も生産されております。

汝窯

北宋末期の短い期間に哲宗・徽宗に指示され宮廷用の青磁を生産した汝窯は、「雨過天青」と尊称される澄み切った青の魅力が特徴で、 後の時代の乾隆帝をも虜にします。
瑪瑙を混ぜた釉薬は淡い洗練された青色の姿を現し、現存するものは僅かですが最高級の青磁と評価されております。
縁には淡い桃色が滲む高潔な青磁の表面はほとんど無文で、細かな貫入がみられ、宮廷御用達の高貴な風情が漂います。

耀州窯

唐末・五代の古い時代にはじまり、北宋時代に黄味がかったうつくしいオリーブ色の青磁が好まれました。
陝西省銅川市を中心に作陶されたその品は、片切り鏨(たがね)による片切彫を駆使した凝った造形装飾が魅力的です。
文様の縁に釉薬が溜まることで深い味わいを湛える姿となります。



*****  南部  *****

越州窯

浙江省慈渓市の周辺にて古く唐代より作陶された歴史ある陶芸産地です。
特に「秘色」と崇めらた青磁の陶磁器は、北宋時代に龍泉窯が青磁の中心となるまで、中国南部の青磁産地として君臨しました。
同じ唐時代の代表的な産地は、この越州窯をはじめ、
邢州(けいしゅう)【河北省邢台市】
岳州【湖南省岳陽市】
鼎州(ていしゅう)【陝西省銅川市】
寿州(じゅしゅう)【安徽省寿県】
洪州【江西省豊城市】
婺州(ぶしゅう)【浙江省東陽市】でした。

景徳鎮窯

その起源は五代時代にまで遡り、現在に至るまで中国最大の陶芸産地として君臨します。
五代時代には青磁、北宋時代には青白磁を生産し、元代以降は色鮮やかな五彩・辰砂・青花・釉裏紅を産出しました。
明や清の時代には官窯として隆盛を極め、洪武、永楽、宣徳、成化、弘治、万暦といった年款銘が刻印されました。

建窯

日本で国宝・重文として名高い曜変天目や油滴天目が有名です。
福建省建陽県付近において宋から元の時代に建盞 (けんさん) と称される優れた天目茶碗を生産しました。

吉州窯

江西省吉安市を中心にして唐代から現代まで続く名窯です。
唐代には青磁、北宋時代には白磁を生産し、南宋時代には天目茶碗、玳玻盞(たいひさん)、木葉天目など多くの優品を輩出しました。
特に黒釉と黄釉のハーモニーによる鼈甲風の姿美しい玳玻盞、木の葉を釉化して文様とした木葉天目は、日本でもたいへん好まれました。

龍泉窯

浙江省竜泉市を中心とする陶芸産地です。白磁の定窯や青磁の耀州窯が元時代に衰退するのに対し、龍泉窯の青磁は引き続き拡大していきました。
宋時代に日本に輸出された龍泉窯の青磁は、無地ですっきりとした青色に焼き上げられ、砧青磁と呼ばれ珍重されました。
変わって元の時代になると、彫り文様や貼花が施された青緑色の青磁に変化してゆきます。
この時代の青磁は天龍寺青磁と呼ばれやはり日本で人気が高い陶磁器でした。
【龍泉窯と哥窯の伝説】
南宋時代の龍泉の街に陶芸を志す若い兄弟がおりました。
腕がよく人気が高かった兄の窯に様子を見に行った弟は、 焼成中の窯をふと覗いてしまいます。
焼成中の器は冷却されて一面ヒビだらけになってしまいました。
しかしこの貫入に覆われた器をみた兄は、更に美しい貫入の作品を追求し、これが貫入のはじまりと語り継がれております。
後に兄の窯は哥窯、弟の窯は龍泉窯として有名になったと謂われます。

中国の絵画 掛軸

☆斉白石(さいはくせき)1964-1957

清朝末期より活躍した書家、画家、篆刻家です。
湖南省湘潭県(しょうたんけん)に生まれ貧しい暮らしを続け、体も弱く、10代より木工にて身をたてます。
当時よりその技術はずば抜けていたと評されます。

20代後半より本格的に絵画の勉強をいたします。
30代からは書画、篆刻にもその才を開花させ、幅広く作品を産み出してゆきます。
40代から「五出五帰」ということで五度も中国各地を渡り歩く旅にいきます。
さらにその後「家居十年」ということで故郷に腰をおろし、じっくりと制作活動に打ち込みます。

50代半ばからは北京に居住してさらなる作品制作に専念いたします。

八大山人、石濤、呉昌硯らの影響を強く受けております。

☆呉昌碩 1844-1927

詩人、書家、画家、篆刻家としていづれも秀でた評価を受けており、「四絶」と尊称されます。
浙江省に生まれるが貧しい時代を過ごし、アヘン戦争、太平天国の乱により湖北省、安徽省を流浪します。

絵画は八大山人、石濤らから影響を受けております。
50を過ぎて著名な画家、任頤に師事し、徐々に絵画、書、篆刻など頭角を現します。
60頃より上海を拠点に晩年まで活躍いたします。

篆刻の評価は日本においても高く、日下部鳴鶴、犬養毅などに絶賛されております。

☆沈南蘋(しんなんぴん)1682-

清代の初頭に活躍した画家です。
長崎に2年滞在し日本への影響も大きく、後の南蘋派へと繋がります。
その端正な花鳥画は徳川吉宗にも好まれ、司馬江漢、伊藤若冲、円山応挙、与謝蕪村など画壇の大家へ多大な影響を残します。

☆于 右任(う ゆうじん)1879-1964

陝西省西安府に生まれ清末から中華民国まで活躍した政治家、書家です。
来日して孫文の結成した中国同盟会に参加します。
1912年に南京に中華民国臨時政府が樹立されると参与します。
蒋介石の建てた国民政府でも重要ポストに付きますが、国共内戦の末に台湾へ逃れます。

中国の歴史~諺~

商(殷)BC17C~BC1046年

●伝説上の始祖は契(せつ)子契ともいう。
初代 契から数えて15代目が天乙。
伝説上の女性 簡狄(かんてき)が玄鳥(つばめ)が落とした五色の卵を誤って呑んでしまう。
そして契(せつ)を生む。契は簡狄の教育により立派に育ち、堯舜の両帝に仕え亳(はく)に封じられる。

●天乙(てんいつ)BC1600年頃 商の初代王 子履、成湯(せいとう)、湯(とう)ともいう
天乙は名臣 伊尹 (いいん) の助けをかりて鳴条の戦いにて夏の最後の王、桀(けつ)を倒す。
中原を統一し、亳(はく)に都を定める
夏王朝初代の禹(う)、周王朝の文王、武王とならび名君として崇めらる。
(中原とは河南省を中心とし、山東省、山西省、河北省、陝西省の一部を含む黄河流域を指します)

□中原に鹿を逐う
逐鹿(ちくろく)ともいいます。
中原の覇者は天下を治めることができたため、天下を臨む英雄達はこぞって中原を手にしようと競い合ったと謂います。
転じて地位や名声を得んがため争うことを指します。

●帝辛(ていしん)BC1100年頃 紂王(ちゅうおう)ともいう。30代王
寵愛する妲己(だっき)に迷妄し、酒池肉林と悪評される長夜の歓楽に迷う。
妲己は天竺の華陽夫人、周の褒ジ(ほうじ)と共に亡国の美女として有名。

□妲己のお百(だっきのおひゃく)
歌舞伎、小説、講談、落語の題材として使われる。
お百は京都九条に生まれ、14才にて祇園の遊女となる。のちに江戸に下り、豪商、名家の妻、妾に幾度となる。その間、5度も男性を殺害すると謂われる。

□酒池肉林
暴君とされる紂王が妲己の美に迷妄し、酒を溜めた池をつくり、肉をかけた林をつくって昼夜酒食に溺れた。
転じて奢侈な生活に溺れ、贅沢に迷う生活を送ること。

周 BC1046年頃~BC256年

●建国よりBC771年までを西周、それ以後を東周という。
当初は鎬京に首都があったが、洛邑に遷都後、東周と呼ばれる。

●伝説上の始祖は后稷(こうしょく)。五帝のひとり、帝コク(ていこく)の元妃である姜ゲン(きょうげん)が巨人の足跡を踏んだ後に生まれたのが后稷とされる。后稷は後に賢帝、舜に仕える。

●后稷より数えて15代目の文王の時代に周は大いに栄える。文王は息子の武王と協力して殷の暴君、帝辛(紂王)を牧野の戦い(ぼくやのたたかい)に破り、周王朝を建国する。

●文王より数えて12代目の幽王は褒ジ(ほうじ)を寵愛し悪政に染まる。
褒ジは笑わない絶世の美女だったが、高級な絹を引き裂く音でほのかに微笑んだ。そこで幽王は国中の絹を集めて彼女を笑わせようとする。
また戦の合図である狼煙をあげ国中の配下を集めると、褒ジは微かに微笑む。
そこで幽王は緊急でもないのに何度も狼煙をあげさせ、無意味な召集に怒った部下は集まらなくなる。

ついには正室の申后と太子の宜臼を追いやり、褒ジの息子伯服を太子に据える。
申后の父である申侯は怒り、夷狄(いてき)の犬戎(けんじゅう)と組んで幽王を倒す。

宜臼は平王に即位し、新たに洛邑に都を建て東周がはじまる。

□傾国傾城
幽王をその美貌で虜にし、西周を破滅に導いた褒ジ(ほうじ)。彼女のように国を傾かせるほどの絶世の美女を傾国傾城と言います。
「傾城」は後に日本において、江戸時代の花魁の別称となります。
傾国傾城の例として、夏王朝の末喜(ばっき)、殷の妲己、越の西施などが挙げられます。

日本では褒ジは野干(やかん)という魔物の化身であったとする説、鳥羽上皇を惑わした玉藻前(たまものまえ)という九尾の狐であったとする説が残っています。
後者の伝説によると、褒ジは西周滅亡後に若藻という少女に化け、吉備真備の遣唐使に紛れて来日したと謂われます。

晋 BC11世紀頃~BC376年

●周王朝の創始者である武王が建国後すぐに亡くなり、二代目の成王が幼くして即位する。
無邪気な成王は珪(けい)に似た木の枝を弟の虞(ぐ)に与え、「汝を諸侯とし封土いたす」と封建の真似事をする。
珪とは当時、配下に土地を与える封建の儀式の際に、証とする板や玉である。

これを見た宰相の尹佚(いてつ)は、成王に弟の虞をいづこへ封じるか問う。
全くの遊びと考えていた成王は「戯れのこと」と答えるが、尹佚は「天子に戯言無し」と即答し、王の言葉に偽りはあってはならないと断言する。
そこで成王は周公旦が滅ぼした山西省南部の唐の土地を虞に封じ、これが晋のはじまりとなる。

□天子に戯言(ぎげん)無し
前出の晋国成立のお話のように、かりにもある組織の長(おさ)であれば、老若男女、状況を問わず、例え戯れ言として語った言葉であっても必ず真の言葉として実行しなくてはなりません。
人の上に立つものの、責任の重さを考えさせる言葉です。

●晋の19代君主である献公は周辺の小国を滅ぼし晋の領土を拡大する。さらにはカクや虞(ぐ)といった国も滅ぼす。

□仮道伐カク(かどうばっかく)
兵法三十六計の二十四計とされる兵略です。
晋はカクや虞(ぐ)の両国を滅ぼしたいが、一度に責めるのは無理だと判断します。
そこで晋の献公は策略を巡らせ、まずは宝物を虞公に送り同盟を結び、カクを攻めるための横断許可を取ります。
そしてカクを攻め滅ぼした後に、孤立した虞を滅ぼします。

転じて一度は同盟を結び、後にその同盟相手も滅ぼす高等な戦略を指します。

●名君として謳われた献公であったが、晩年は愛妾の驪姫(りき)に溺れ、治世に狂いが生じる。
我が息子の奚斉を献公の跡取りに据えんが為に策謀する驪姫の諫言を聞き入れた献公は、太子であった申生を排除し、他の跡取りである重耳と夷吾を追放します。

これは驪姫の乱と語られ、晋国は大いに混乱します。献公亡き後、部下の里克が反旗を翻して驪姫や奚斉を討ち取り、夷吾は22代恵公、重耳は24代文公として即位します。

●晋の重耳(後の文公)は驪姫の乱以来、国内の騒乱を避けて20年近く各国を放浪する。
40代はじめに河北省の白狄へ身を寄せ、季隗を嫁に娶る。
さらに放浪を重ねた重耳は、衛の文公に冷遇され、斉の桓公に歓待され、曹の共公に無礼な応対を受け、宋の襄公や楚の成王にも身を寄せる。
秦の穆公の後押しを得て、晋に帰国し文公として即位した時には、すでに還暦を過ぎていた。

□春秋五覇
前出しました晋の名君、文公をはじめとし、斉の桓公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王の五人の覇者を春秋五覇と呼称します。
総じて春秋時代のBC7世紀頃に活躍して各々の国を興隆させております。