骨董品買取 朝伊苑

志野焼・瀬戸焼・織部焼の買取
















志野焼・瀬戸焼・織部焼の買取

★志野焼

志野焼は、昔の美濃国を中心にして桃山時代より制作された陶器です。
半透明色の白釉(長石釉)を厚くかけた作品が多くみられます。
志野焼には、絵志野(釉下に鉄で文様を描く)、鼠志野、紅志野、無地志野などの種類がございます。

名碗 名器

卯花墻 国宝
志野茶碗 銘「羽衣」
志野茶碗 銘「通天」
志野茶碗 銘「蓬莱山」
志野茶碗 銘「老の友」
志野茶碗 銘「広沢」 重要文化財 在:湯木美術館
鼠志野亀甲文茶碗 銘「山端」 重要文化財 在:根津美術館
鼠志野亀甲文茶碗 銘「峰紅葉」 重要文化財 在:五島美術館

鼠志野柳文平鉢(やなぎもんへいはち) 在:サントリー美術館
志野芦絵水指 銘「古岸」 重要文化財 在:畠山記念館
鼠志野鶺鴒文鉢(せきれいもんばち) 重要文化財 在:東京国立博物館



★瀬戸焼

日本六古窯のひとつとして歴史ある焼き物です。
古墳時代から平安時代に、尾張から西三河にかけて、「猿投(さなげ)古窯群」が生まれます。
鎌倉時代には、加藤四郎景正が中国、宋から施釉陶器の技法を伝え広め、瀬戸焼へと昇華してゆきます。
室町時代には古瀬戸として多くの作品が生産されました。
桃山時代には、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部が多く作られました。
江戸時代の文化年間には、加藤民吉親子が有田より染付磁器を伝えたことにより、瀬戸染付は主流となります。

名碗

瀬戸黒茶碗 「小原木」 重要文化財 在:不審庵


★織部焼

もとは古田織部の指導のもと、織部焼の作陶がはじめられます。
江戸時代の慶長年間より、土岐市にて生産されます。
黒織部、青織部、赤織部、志野織部などの種類が作られます。


名碗

黒織部茶碗 「冬枯」 重要文化財 在:徳川美術館

加藤土師萌

1900年 瀬戸市に生まれます。
1937年 パリ万国博覧会にてグランプリを受賞します。
1940年 横浜市の日吉に窯をつくり、中国明朝の黄地紅彩の復元に力を注ぎます。
1955年 東京芸術大学の陶芸科、初代教授に就任します。
1961年 「色絵磁器」にて人間国宝の称号を授与します。
1966年 日本工芸会理事長に就任します。

加藤卓男

1917年 多治見市に生まれます。
1945年 徴兵されて広島で被爆します。10年間白血病にて闘病生活を送ります。
1965年 フィンランド工芸美術学校に留学いたします。ペルシャ陶器の研究を重ねます。
1995年 「三彩」にて人間国宝に認定されます。

鈴木藏

1934年 土岐市に生まれます。
1953年 多治見工業高等学校窯業科を卒業します。
1994年 「志野」にて人間国宝に認定されます。

荒川豊蔵や加藤土師萌のもと志野焼を作陶いたします。
志野特有の白泥を生み出す、長石についての研究を重ねます。
古来の半地下式穴窯を基軸にして、独自の焼成方法を追及いたします。

加藤孝造

1935年 瑞浪市に生まれます。
1970年 多治見に穴窯を築きます。荒川豊蔵に師事します。
2010年 「瀬戸黒」にて人間国宝に認定されます。

瀬戸黒は桃山時代より美濃で焼かれた総黒の焼き物です。
釉薬中の鉄分が黒色に変化して黒を生み出します。

荒川豊蔵

1894年 多治見市に生まれます。
1919年 特殊絵具で手描きした上絵付き珈琲茶碗をプロデュースします。上絵磁器製作の仕事をはじめます。
1922年 事業に失敗して、絵描きを目指します。東山窯の工場長となります。
1925年 東山窯を訪れた北大路魯山人と知り合いになります。
1927年 北大路魯山人の星岡窯(鎌倉)を手伝います。
1930年 志野焼と出会い、大平大萱の古窯跡を調査します。
1946年 多治見に水月窯を築きます。
1955年 「志野」と「瀬戸黒」にて人間国宝に認定されます。
1971年 文化勲章の称号を受けます。
1984年 豊蔵資料館(現:荒川豊蔵資料館)を開館いたします。


┏┻┻┳関の刀剣┳┻┻┛

人間無骨(むこつ)

和泉守兼定(之定)の打った十文字槍です。
表に「人間」裏に「無骨」と切ります。
この槍を前にしては人の骨など無いに等しいという意味です。

「鬼武蔵」と恐れられた森長可(ながよし)の振るった名槍です。長可はこの槍を手に伊勢長嶋の戦いで奮戦いたします。
後に津山藩主となった森家では、参勤交代の際、先頭に「人間無骨」を掲げたと謂われます。

歌仙兼定 在:永青文庫

二代兼定(之定)の鍛えた名刀です。
細川忠興が当主、細川忠利の36人の近臣を肥後八代城にて次々に切ったことが、由来です。
三十六歌仙に因んで名付けられたと謂われます。

16代細川護立(もりたつ)侯爵が買い戻して、昭和初めより所持しております。

青木兼元

「真柄切」「真柄切兼元」とも呼ばれます。
関の名工、孫六兼元が鍛えた太刀です。
刀文にいわゆる「関の孫六三本杉」がみられます。

姉川の戦いにて、青木一重(丹羽長秀の家臣)が、朝倉方の猛将として恐れられた、真柄直隆、直澄兄弟を討ち取ります。
以後、丹羽家に伝来いたします。